EPISODE

エピソード

「私たちの全ての判断基準はお客様の笑顔である。」
「お客様の心の背景を考える。」
MOTHERSの目指すサービスとは何か、
社内ではこんな言葉でよく表現されます。
でも説明するよりも、
きっと実際のエピソードを読んでもらう方が
大事にしていることや価値観を理解してもらえるはず。
そう思い、MOTHERSらしい
6つのノンフィクションのエピソードを用意しました。

ブイヤベースには
岩のりのリュスティックを

「幸太郎さん、
とにかくいい店つくりたいんです、俺」
「廉、おまえが思ういい店って?」
「だから、とにかくいい店ですって!」

EPISODE 1

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EPISODE 1

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もう一分、
つくり始めるのを待とう

キッチンからホールを見る。
お客様の表情をよく見る。
テーブルごとの心の動きを読む。
それがすべてだとシェフの遼は思っている。

EPISODE 2

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EPISODE 2

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付け合わせ、旬の野菜の
グリルに変更したいです

お客様が注文されたものを、
その通りにお出しする。
それが正解だと思っていたし、
それ以外に正解はないと思っていた。
この店に入るまでは。

EPISODE 3

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EPISODE 3

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こんなに分厚いのは、
うちの生ハムって言えない

「二卓さまサラダアップ!」
「OK!」
「三卓さまパスタ、あとどれくらい?」
「三十秒」
「OK!」

EPISODE 4

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EPISODE 4

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そのテーブル、もう1ミリ右に

店がオープンするのが怖い。
それが正直な気持ちだった。
二十代半ばの自分に、どうしてこの役目を?
メンバーにばれないように必死で平静を装って
いたが、内側は毎日、押しつぶされそうだった。

EPISODE 5

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EPISODE 5

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ミシュランの星つきシェフより、
お客様を喜ばせられてるか

「それって東京?」
よくそう言われたものだ。
東大和という街の、
小さな一店舗から始まった
MOTHERS。

EPISODE 6

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EPISODE 6

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EPISODE 1

ブイヤベースには
岩のりのリュスティックを

「幸太郎さん、とにかくいい店つくりたいんです、俺」
「廉、おまえが思ういい店って?」
「だから、とにかくいい店ですって!」

常に火力を最大にしたコンロのよう。一人倍強い感情。想いが言葉を追い越して走り出す。ホールスタッフの廉は、そんな若者だった。マネージャーの幸太郎は、そのたびに廉を諫めた。それでも、廉の力がこの店には必要だと思っていた。

廉もまた、閉店後に飲みながら話を聞いてくれたり、扱いづらいだろう自分を敬遠せず、本気で助言してくれる幸太郎のことを慕っていた。

まっすぐな廉は、よく他のメンバーとぶつかった。お客様への温度差をメンバーに感じると、相手が先輩だろうと関係なかった。「これでお客様を喜ばせられますか。うちならもっとできるはずでしょ」営業中にまでキッチンのメンバーと口論になりかける。「洗い場でアタマ冷やしてこい」幸太郎に叱られることもしょっちゅうだった。反省と悔しさが混ざっているような佇まいで皿を洗う廉の背中。キッチンではよくある光景だった。

廉をどう活かすか。幸太郎がまだ解を見出せずにいたある日、その出来事は起こった。ディナーの時間、ある常連のお客様から、魚介を煮込んだブイヤベースの注文をいただいた時だった。急に廉が走り出して、店から出ていくのが見えた。
(なにしてんだ、ホールをほったらかして)

数十秒後、走ってキッチンカウンターに戻ってくると、廉は言った。
「あのブイヤベースには、これが合います」
手に持っていたのは「岩のりのリュスティック」だった。ベーカリーチームが開発した商品で、パリッとした外皮の中に、米粉を使ったもちもちの生地。かみしめると岩のりとバターの風味が広がる。幸太郎も食べたことがある、美味しいパンだった。

「今日のブイヤベース、開店前にシェフが試食させてくれたんです。それがほんと最高で。ベーカリーがつくったこのパンを合わせれば、他のレストランでは絶対にできないペアリングになる」

幸太郎はすぐに言葉が出なかった。廉の唐突なプレゼンを聞いて、叱るつもりだった気持ちもどこかへ行った。そして、創業間もない頃のことを思い出した。いい店にしようと、誰もが何かを持ち寄っていた。若かった幸太郎も、いい食材やお酒を見つけるたびに店に持ってきて、マネージャーやシェフに見せた。流行りという理由ではすぐに却下される。でも、食べてもらいたいお客様が自分の中に見えているときは、無茶な提案でもマネージャーとシェフは認めてくれた。廉の姿が、そんな昔の自分と重なって見えた。
廉の声を聞いたシェフもキッチンの奥から出てきて、リュスティックを手に取り一口食べると、うなずき言った。

「これでいこう」
「あざす!」

六年後。

開店前の朝礼で話す、マネージャーになった廉がいた。予約状況の共有や連絡事項の後、お店のメンバー全員でつくる輪の中に廉が言葉を投げかける。
「俺はとにかくいい店をつくりたい。そのためにはみんなの力がいる。お客様が笑ってて、俺たちが笑ってる。そういう絵が俺には見えてる。この仕事しててよかった、生きていてよかったって、帰り道に泣けてくるくらいの一日にしよう。本日もお願いします!」

EPISODE 2

もう一分、
つくり始めるのを待とう

キッチンからホールを見る。お客様の表情をよく見る。テーブルごとの心の動きを読む。それがすべてだとシェフの遼は思っている。素材を切る、混ぜる、茹でる、焼く、盛り付ける。それらすべては、お客様を笑顔にするためのプロセス。作業じゃない。この日もキッチンの五人のチームプレーが始まろうとしていた。

「こんばんは」「今日はお忙しいところありがとうございます」「きれいなお店ですね」四人でご予約のお客様が入ってきた。そのうちの二人は、近くに拠点のあるスタートアップの若い経営者。遼たちも顔を覚えている常連だった。だが今日はいつもと雰囲気が違う。硬い表情で挨拶している。それだけで、大事な会食だと分かった。

「大事なゲストみたいですね」「みたいだ。お力になろうか」「はい」
コースの提供が始まる。まずは季節の野菜をのせたアンティパスト。ゲスト側の一人の女性が「かわいいですね」と言いながら口に運ぶと、目を見開いて笑顔になった。それをきっかけに、張り詰めていた空気感がほどけて、四人の会食にぽっと明かりが灯ったのがキッチンからでも分かった。徐々に盛り上がっていくテーブルにその後も目を配りながら、キッチンも静かに熱量を上げていく。一つ目の料理をお客様が食べ終わった後、五分ほどで、次の料理をリズムよくお出しする。ホールとも合図しあいながら、キッチンを動き回る。十五分かかるメニュー、二十分かかるメニュー、それぞれの調理時間と、お客様が食べるペース。それを同時に読んで、つくり始めを判断するのは、遼の役目。他のテーブルの注文も重なりだすと、若いメンバーはつくることに精一杯になっていく。ホールに目を向ける余裕が消える。それでも遼は言い続ける。お客様を見ながらつくれ。先輩たちから教わってきた、いちばん大事なことだった。

「愛華、ちょっと待って」
ホールから促されてパスタをつくりだそうとした愛華を、遼が止めた。
「どうしました?」「ちょっと待とう」
遼が見ていたのは、ゲストに懸命に語っているスタートアップ代表の背中だった。話の内容はキッチンからは分からない。でも、今夜の会食の核心がそこにあることは、その背中で伝わった。今日いちばんの大事な話を、料理の提供でさえぎりたくない。つくりたてから十秒で味が変わってしまうパスタを、すぐ食べられないタイミングでお持ちしたくない。だが間が空きすぎれば、会食のテンポが乱れる。

「あと三分」
パスタボイラーの前で愛華が待機する。他にもやらなければいけない準備がある。その焦りの中での三分はなかなか過ぎない。

「あと一分」
心の中で数え始めた愛華が五十秒まで数えたとき、遼のゴーサインが出た。
「いこう」「はい」
沸き立つお湯へ、愛華の手からパスタが美しく滑り出した。

遼が分刻みで感じ取る判断の根拠は、若いメンバーたちには分からない。ただ、お客様のテーブルで話が一段落し、四人がほっとした表情で飲み物に手を伸ばした、まさにそのとき。湯気の立つ「桜海老とふきのとうのペペロンチーノ」が四人分、これ以上ないタイミングでテーブルに届いた。

帰り際、お客様がキッチンのほうを振り返ってくださる。それはキッチンがいい仕事をした証拠だと先輩からは伝えられてきた。今夜はどうだったろう。あのテーブルに、自分たちは力になれただろうか。ドルチェとコーヒーの後、帰り支度をする四人の様子を、キッチンのメンバーは気にしていた。
すると、あの代表がテーブルのほうからキッチンに体を向けて、頭を下げた。いい顔だった。
「あ、よかったみたいですね」「そうだな。よかった」キッチンの五人の誇らしげなサムズアップがシンクロした。

EPISODE 3

付け合わせ、旬の野菜の
グリルに変更したいです

お客様が注文されたものを、その通りにお出しする。それが正解だと思っていたし、それ以外に正解はないと思っていた。この店に入るまでは。
「トマト系のピザとパスタが続くけど、本当にいいのかな。もう一度、お客様に確認して」ホールの私がご注文をそのまま通していると、シェフはそんなふうに言ってくる。お客様が注文されたんだから、いいに決まっているのに。最初はよく分からないまま、食材や味が重複しているご注文があることをお伝えして、再確認していた。お伝えすると、そのままでいいという方もおられたけれど、注文を考え直されるお客様も多く、忙しいときは効率が良くない気がした。

けれど、お客様から、思っていた以上に感謝の言葉をいただく経験をして、私の感じ方は変わってきた。
「丁寧にそこまで考えてくれてありがとう」
「料理の名前だけでは想像できていなかったので、言ってもらって嬉しかった」
そんなふうに会計のときに言われると、よかったと思った。同じ味や食材が続かないように、料理のプロの視点で注文をサポートする。そういうことなのかもしれない。キッチンの人たちの視点と気持ちが、入社から半年くらいで、私にも少し分かった気がした。ただ、季節によって素材は変わるし、シェフたちが開発した新メニューが入ってきたりもする。お客様が頼まれるものに、「食材かぶり」はないか。私のそのセンサーは慌ただしい時間帯ほど感度が落ちる。キッチンの人から指摘されて、お客様のもとにもう一度、相談に行く。そんな場面は多かった。

「宮崎牛 肩ロースのグリルですね。ありがとうございます」
この日も満席の夜だった。お客様からいただいた注文をタブレットでキッチンに伝えながら、お客様がフライドポテトを注文してくださっていたことを思いだした。そうだ、今日の肩ロースのグリルの付け合わせも、フライドポテトだ。毎日、営業が始まる前の朝礼で、シェフから付け合わせの共有がある。
「今日の付け合わせはフライドポテト。食材かぶりとか苦手な方がいれば、他のものも用意できるから相談して」
キッチンへ進もうとした足を止め、私は瞬時にお客様の席へと戻った。
「ご注文いただいた宮崎牛 肩ロースのグリルですが、本日付け合わせがフライドポテトとなっております。よろしければ、旬の野菜を使ったグリルもご用意できるのですが、いかがでしょうか」
「わ、いいね。そうしてもらおっか」
自分と同じくらいの歳だろうか。ふたりの女性が笑顔で目を合わせる。

「かしこまりました。(よし。うまくいった)」

お客様に会釈し、キッチンのほうを見ると、シェフと目が合った。
「今、ご注文のあった肩ロースのグリルなんですけど、付け合わせ変更したいです。お客様がもうフライドポテトを召し上がっているので」
「よく気づいた。えらい」
「旬の野菜のグリルにしたいです。このお店の野菜は美味しいと、さっき話されていたので」
「OK。付け合わせ、旬の野菜のグリルにしよう。苦手な野菜がないかだけ、もう一回お客様に確認してみて」
「はい」
シェフが見せてくれたバットには、すでに菜の花と新たまねぎが載っていた。

そのお客様は、お肉に添えられた旬の野菜をとても喜んでくださった。帰り際に「美味しかった。また一緒に来ます」と笑顔で言ってくださった。エントランスでお見送りした後、思わず小さくガッツポーズした私を、遠くからキッチンの人たちが見て笑っていた。

EPISODE 4

こんなに分厚いのは、
うちの生ハムって言えない

「二卓さまサラダアップ!」
「OK!」
「三卓さまパスタ、あとどれくらい?」
「三十秒」
「OK!」
キッチンに出力されてくる伝票が止まらない。次々と作業台の上に貼り出し、全員で見つめながら、それぞれがやるべきことを読み取る。つくる、つくる、つくる。ホールではお客様が待ってくださっている。「そろそろかな」とキッチンを見る視線。(ただいまおつくりしています)。心でお客様に答えながら手は止めない。それぞれが戦っている相手は、自分だ。次第にこの日のメンバーのリズムが生まれてきて、料理の提供スピードが上がり始めた、まさにそのときだった。

「真央、この生ハム、やりなおして」
ホールの優太が、真央がつくった生ハムの盛り合わせを突き返した。流れが止まった。
「こんなに分厚いのは、うちの生ハムって言えない。シェフと相談して」
感情を抑制した声。すでに次の作業に入っていた真央は、込み上げてくる感情を押し込んだ目で言った。

「今のキッチンの状況、分かってる?」
「こんなに分厚いのはうちの生ハムじゃない」
「じゅうぶん薄い。1ミリもない」
「口に入れただけで溶けるのが、うちの生ハムじゃなかった?」
客席には聞こえないように顔を近づけて、小声で二人は激しくぶつかった。シェフが気づいて、二人の間の生ハムの皿を見た。
「真央、やりなおそう。あと0.3ミリ薄く」

愕然とした表情のまま、真央はスライサーの前に立った。スイッチを入れ、冷蔵庫から生ハムの原木を取り出す。高速で回転する円形の刃に原木を押し当てると、薄くスライスされた生ハムが現れる。簡単に見えて難しい。生ハムの種類や硬さ、その日の刃の切れ具合によっても、押し当て方は変わってくる。薄くしようとするほど破れるリスクは高まる。高価な原木を無駄にする怖さ。薄さを攻めきれないことは確かにあった。スピードを追う中で、今日はそうだったのかもしれない。息を一つ吐くと、真央は原木を刃に当てた。集中する。店内の音が遠くなっていく。オーダーを読む声も、鍋やフライパン、皿の音も消える。

真央と優太は同期入社だった。新人研修のときの、シェフがスライスしてくれた生ハム。向こうが透けて見えるほどの薄さ。「すごくない?」口に入れると一瞬で溶けた。「めっちゃすごい」一緒に感動した。生ハムの美味しさをいちばん引き出せる薄さをみんなで試したんだとシェフが言った。それを忘れていたわけじゃない。ただ今日は無意識に臆病になっていた。薄く切られた生ハムが、真央の手によって皿に並べられていく。さっきとは違う。繊細なピンク色の花びらが皿を彩った。

「どうでしょうか、シェフ」
「OK! 生ハムアップ!」
皿を受け取った優太が、心から嬉しそうに笑った。それを見て真央も笑った。
「さっきはごめん。ありがとう、優太」
「こっちがありがとうだよ」
「こちらこそ」
「いいから早くお持ちしろ!」
キッチンに笑いが起こり、張り詰めていた空気がしなやかさを取り戻す。ホールとキッチンのセッションがふたたび響きだす。生ハムを一口食べたお客様の驚く表情を見て、同期の二人が一緒にうなずいた。

EPISODE 5

そのテーブル、もう一ミリ右に

店がオープンするのが怖い。それが正直な気持ちだった。二十代半ばの自分に、どうしてこの役目を? メンバーにばれないように必死で平静を装っていたが、内側は毎日、押しつぶされそうだった。都心の新店の立ち上げマネージャー。そのプレッシャーは思っていた以上にでかかった。感度の高いお客様に、自分が応えられるのか。今までの自分が過ごしてきた世界から外に出された感覚。何も決まっていないカオスから立ち上げるプロセスは目まぐるしい。決めていくことの多さに、気持ちが追いつかなかった。ただ、当然オープンのときはやって来る。事前の告知によって注目を集め、近隣の経営者やアパレルブランド、デザイナーやメディアの人で予約は埋まった。一見、うまくいっているようだった。実際は若いチームの勢いで一日一日を乗り切っているだけ。それを、自分は分かっていた。

お客様を喜ばせることには、自信があるほうだった。目の前のお客様に感情移入する資質が、自分には人よりある。そう思っていた。最初に働いた店では、置いていないお酒をお客様が望まれれば、ダッシュで外に買いに行った。初めてマネージャーになった店では、彼女へのプロポーズのために予約してくださったお客様を、スタッフ全員で応援した。懸命にやった。お客様も感動してくれた。それがまた次の来店につながった。でも、それだけじゃもう足りない。近隣には星付きの一流店もある。がむしゃらの次の次元に行かなければ、俺たちがここにいる意味がない。

「実は俺、お客様がずっと来てくださるのか、不安でしょうがない。俺たちだからこその、最高のおもてなしを目指したい」
かっこつけるのをやめた。一人で悩んでいてもダメだと思った。閉店後もメンバーと飲みながら話した。休日も評価の高いお店を見て回り、いいものを見ては考えた。

「一流の料亭や旅館は、必ず玄関前に打ち水がしてある」
「清める意味があるらしい。でもただの儀式じゃない。来る人のためにやってる」

「この店の料理のサーブ、気持ちいいな。なんでだろう」
「音がしない。スッと置かれる。タイミングも完璧。呼吸?」

「ハイブランドのショップって、なんで空気感が違うんだ?」
「入口のガラスドア、いつ行っても指紋がひとつもない」

そんな日々は、うまく言えないけれど、ものを見る解像度を高めるような変化をメンバーにもたらした。開店前に店頭のガラスを拭く手に、気持ちが入りはじめた。天井のダクトのわずかな埃に気づいて、黙って脚立を持ってくるメンバーが現れた。料理をテーブルに置く指先まで意識が届くようになった。いい感じだ。でもまだ何かが足りない。表面だけ一流店を真似しているだけじゃ、中身はまだ空洞だ。

ある日の閉店後、メンバーと飲んでいたときだった。一年目の遥人が、照れくさそうに言った。
「昨日、初めて彼女が自分の部屋に来たんです。もう前の日から部屋を掃除しまくって、ピカピカにして迎えましたよ」
できたばかりの彼女の話を幸せそうに話す遥人。これだと思った。

ピカピカに磨くことが目的じゃない。大事な人を初めて部屋に迎える。あの嬉しさと緊張が入り混じった気持ちで、俺たちは店をととのえよう。店の中やお客様の、一ミリの変化にも気づく感覚を持っていよう。キッチンが張り切ってつくった料理を、ハッとする最高のタイミングで届けよう。そうやって大事な人が喜ぶ。その顔を見て俺たちは喜ぼう。翌日の朝礼からみんなに呼びかけた。

「そのテーブル、もう一ミリ右に。そう。OK」
床に膝をつき、天板の位置に目線を下げて、今日もテーブルの位置を揃える。開店直前まで、それぞれがそわそわと動いている。もうすぐ、大事な人がやってくる。

EPISODE 6

ミシュランの星つきシェフより、
お客様を喜ばせられてるか

「それって東京?」よくそう言われたものだ。東大和という街の、小さな一店舗から始まった MOTHERS。二十代の僕が、そのキッチンを任された。スマホなんてない頃だ。社長と料理の本を持ち寄ってはカウンターに並んで、夜がふけるまで新しいメニューを考えた。あのお客様はこれをつくったら喜ぶんじゃないか。あの人はきっとこれが好きだ。こんなこともできるんだって、みんなを驚かせようぜ。そういう話ししかしていなかった。まだ狭い世界しか見えてなかった。足りないものだらけだった。でもあの小さな空間が、僕たちの成長と創造の場所だった。あれから場所も規模も変わった。でも、今もお店をまわって、カウンターから開店準備をするスタッフたちを眺めていると、あの東大和とつながっている自分がいる。根本は何も変わってないのかもしれない。

「ミシュランの星つきシェフより、お客様を喜ばせられてるか」
キッチンのメンバーにそう言うと、若い子たちは一瞬、固まる。何を言ってるんだ、この人は、という顔。分かる。僕も二十代だったら同じ顔をしたと思う。僕自身、星つきシェフを簡単に超えられると思っているわけでは全くなく、むしろ相当リスペクトしている。あの人たちの調理理論はめちゃくちゃすごい。考え抜いて、緻密な計算でつくりあげた味を、お客様も緻密に読み取って、通じ合っている。カジュアルなレストランにはとても真似できない、料理の一つの高みだと思う。それでも僕は言い続ける。星つきシェフよりも、お客様を喜ばせられてるか。技術や理論でまだ勝てなくても、僕たちのやり方でもっと喜ばせることができる。本気でそう思っているからだ。

料理には、つくり手の人間性が乗る。素材への敬意がある料理、ない料理。食べる人を想っている料理、想えていない料理。つくっている人間が楽しんでいる料理、つくるだけで精一杯な料理。いま、この瞬間に、どんな気持ちでつくっているか、ぜんぶ料理には出る。最高に乗っているときの料理は、オーラを放っているのが見えるし、一口食べた瞬間にお客様の体と心を射抜く。ただの精神論じゃないことが、MOTHERSである程度の経験を積んできた人間なら、感覚として分かるはず。

東大和の店で、僕がつくったパスタを食べて、急に泣いたお客様がいた。若い頃にイタリアで修行した経験がある人で、一口食べた瞬間に、その頃の記憶がよみがえったと言ってくれた。それを見て、僕も泣いた。料理は、人の人生に触れることができるものだと思う。そのとき、僕たちは星つきシェフを超えられるんじゃないか、とも思う。

でも、だからこそ。こうすればいいとは簡単に言えない。ただ良い人間になれと言っても意味がない。そこに、料理の腕も伴わなければダメ。でも料理だけできて人間性がついてこない「三流」の料理人は世の中にいっぱいいる。おまえは、それでいいのか。水を無駄にするな。素材を大事に使え。お客様を見ろ。自分への弱さで、手を抜くのは人間としてダサい。人間がダサかったら、星つきシェフに勝てるはずないぞ。僕はそんなことを言い続けている。

なかなか殻を破れず苦しみながらも、心を折れずにやってきたキッチンのメンバーが、ある日、突然変わり始める瞬間を目にすることがある。水一滴に心が配れてきたとき、その子が握るフライパンの中のパスタが変わる。揺れながら、キラキラと輝き出す。これは例えではなく、本当。食べる人を想っているのが分かる。盛り付けもいい。パスタにオーラが見えてくる。

それがテーブルに運ばれる。お客様がフォークを持つ。その子と並んで、キッチンからそっと眺める。最初の一口を食べた瞬間、お客様の表情が大きく変わるのが見える。
「できたじゃん。これだよ。やったじゃん」
その子が目を潤ませている。
「おい。おまえが泣いてどうすんだよ」
輝くパスタがもっと輝いて見えるときだ。